“――「『すしざんまい』の社長が、アフリカのソマリアで、元海賊とマグロ漁をやっている……と話題になったことがありましたね。

木村:今でもやってますよ。ソマリアの沖というのは、キハダマグロのいい漁場なんです。ところが海賊が出るようになり、危なくてマグロを獲りに行けなくなってしまったんです。しかし、聞いてみると誰も海賊とは話していないという。おかしいじゃないですか。海賊といったって相手は人間なんですから。それでさっそく、伝手を頼ってソマリアの海賊たちに会いに行きました。そこでわかったことは、彼らだってなにも好き好んで海賊をやっているわけじゃないということです。だったらこの海で、マグロを獲ればいいじゃないか。自分で稼いだ金で家族を養うという、誇りを持った人生にしなくちゃいかん――と、彼らと話し合ったんです。

――ソマリアの人たちは、内戦で国を失い、無法地帯となった彼らの海が荒らされたため、海賊になったと主張しているそうですが、自力では対抗できなかったのでしょうか……?

木村:口で言うのは簡単ですが……、まず彼らは、マグロ漁の技術をもっていないし、船もありません。マグロを獲ってもそれを入れておく冷凍倉庫が使えなくなっている。獲ったマグロは売らなければなりませんが、そのルートをもっていない。IOTC(インド洋まぐろ類委員会)に加盟していないから、輸出ができなかったんです。じゃあ、仕方がない。うちの船を4隻もっていった。漁の技術も教えましょう。冷凍倉庫も使えるようにする。ソマリア政府にはたらきかけてIOTCにも加盟する。獲ったマグロをうちが買えば、販売ルートも確保できる。こうやって一緒になってマグロ漁で生活ができるようにしていったんです。

――「民間外交」の枠を超えた貢献ですね。なぜそこまで?

木村:いろんな国や国際機関も援助をやっていますが、どれも上滑りのことばかりであまり役に立っていないことも少なくありません。相手の視線に立って、相手の悩みに気がついてあげることが必要なんです。ソマリア沖じゃ一時は年間300件、海賊による被害があったそうですが、うちが行くようになって、この3年間の海賊の被害はゼロだと聞いています。よくやってくれたと、ジブチ政府から勲章までいただきました。

――そこまでして、事業として採算はとれるんですか。

木村:んー。まあ、正直言って今のところまだ採算はとれていませんね。しかし、将来的にはきちんと利益が出る目論見はたっていますよ。それに商売というのは、目の前の利益、儲けのことを第一に考えていたんではうまくいかないものなんです。まず考えなくてはならないのは、どうやったら喜んでもらえるか、何を求められているかということ。それに応える算段をするのが「商売」なのではないですか。”
すしざんまい社長が語る「築地市場移転問題」と「ソマリア海賊問題」 | ハーバービジネスオンライン :: http://hbol.jp/77365
“昨年8月ニュージーランドでお世話になった西村弁護士が正月休みで一時帰国された。久し振りに会いましょうと誘われ、昨晩夕食をともにした。そこでお聞きした面白い話…。
  ニュージーランドでは、時速150kmで逃走する車をパトカーが追いかけてはいけないというガイドラインがあるという。逃走車やパトカーが事故に遭い第三者も巻き込んで死傷者が出るリスクと犯人を取り逃がすリスクを天秤にかけて、死傷者が出るリスクの方を重視するのだ。日本ならきっと、犯人を逃がしていいのか、事故にならないように走ればいいのだ、と非難されるだろう。
  長時間、長期間の徹底した取調べでウソの自白を強要されえん罪が生まれてきたとの指摘に対して、取調べ時間を規制して真犯人が自白せず放免していいのか、えん罪にならないように気をつけて取調べればいいのだ、という反論と共通している。
  徹底的に取調べて真犯人をついに自白させたケースもあるだろうが、逆に、取調べの苦しさから逃れるためにウソの自白を強いられたケースもたくさんある。徹底した取調べにより、真犯人を見つけることと、えん罪を生むことは、両方あり得ることで、真犯人の発見とえん罪を生まないことは両立しない。これをトレードオフ関係という。時速150kmを超えて逃走車を捕まえることと事故にならないこととは両立しない。
  科学的にも、統計上も、両立しないからこそ、どこかで適正ラインを引くべきである。しかし、時速◯◯km以上では追いかけない、1日◯◯時間以上は取調べない、それ以上は犯人を取り逃がしてもやめる、という発想に日本はならない。あくまでも犯人を取り逃がないことを事実上絶対視し、それと両立しないリスクに対しては、そうならないように(事故にならないように、えん罪を生まないように)気をつけなさいという精神論でお茶を濁す。
  だから、いま参議院で継続審議となっている刑訴一部改定法案では、重罪事件で取調べの録画を原則とすると言いながら、被疑者が自白しそうになければ録画しなくていいという逃げ道を作って、被疑者の自白を取ることを絶対視し、取調べの規制を相対化する。こうして部分録画でえん罪が生まれやすくなるリスクに対しては、そうならないように気をつけましょうという精神論だけだ。
 科学的、合理的、客観的な、冷静な思考方法を日本社会が身につけるには、これからどれくらいかかるのだろうかと、2016年を迎えて、改めて思った。”

ニュージーランドの合理的思考余話: 小池振一郎の弁護士日誌 :: http://koike-sinichiro.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-39e4.html

日本の歴史上、原理的に不可能な事を精神論だけでどうにかしようとした結果として起きた最大の悲劇が太平洋戰爭における敗戰であるわけだが、無樣にもこの國はその失敗から何一つ學ばなかったのだ。

“消費者が、この手の抗酸化何とかには意味がない、と見抜いて、他社の水素水を買わずに早々に市場から駆逐していれば、伊藤園の参入は無かっただろう。アホな製品を買い続けると、知識も技術もあるはずの企業でさえ、消費者のレベルに迎合した商品を出さなければならなくなるのは、マイナスイオンの時にも起きたことである。”
伊藤園「還元性水素水」へのコメント(2015/11/26) — Y.Amo(apj) Lab :: http://www.cml-office.org:8080/official/wwatch/alkalli/comment-ph-07

男子が女装した話すると二丁目とかハッテン場行け、みたいなレスがつきがちだけど、冷静に考えたら、自分がどういう服を着るかと、自分がどのような対象に性欲を持つかって、そこまで直結するかなあって思う。

逆に言うと、まず本人が性欲の対象とする性があり、なんとなくヘテロセクシュアルっぽい前提にそって、それとは逆の性っぽい見た目、いわば社会的に規定された男らしさあるいは女らしさにそって振る舞うことにより、性欲の対象に好まれ選ばれる確率が上がる…という機序で服選んでるとしたら、相当まどろっこしくないだろうか(ファッション誌のモテ特集とかはそんな感じだけど)

ま、それを否定する気持ちはない。私とかは「ザ・ヘテロシス女性」なのでモテたくてスカート履くみたいなのは極めて自然なんだけど、でもそれだけじゃないわけで。(実際、ババアなのに男目当てでスカート履いてる、とか言われたら嫌だ)

むしろ、そういう動機より「かくありたい自分」になるために服を選ぶというのは、考え方として非常にシンプルだし普遍性があると思う。

たとえば、男装レイヤーの男装って、自分の理想のかっこいい男性に近づこうと思ってやってるように見えると思う。同じように、男子が自分の理想の女の子みたいに可愛くなりたいって思うのだってあるはず。

その上で、その人がどういう属性の誰を愛しようと、それは服装とは関係ないことだと思う。

しかし、なんでセクシュアリティっていうデリケートなところに世間はすぐに手を突っ込んでこようとするのか。デリケートなものはデリケートなものとして大事に取り扱っていかないと、男女性志向問わずあんまり幸せになれない気がする。

ケーキに載ってる苺は最初に食べるほうが甘い :: http://d.hatena.ne.jp/rikopie/20151222/1450790266

これもその渦中で書くのはためらっていたのだが、「闇のキャンディーズ」問題で微妙に気になっていたことがあった。
 その前に、「闇のキャンディーズ」問題とは何か、というと、そのペンネーム、というか呼称でTwitterに登録した人がいて、自身の考えに反対する人に対して、例えば、「☓☓☓死ね。それとも、殺されたいのか?」「お前の赤ん坊を豚の餌にしてやる」といった暴言を吐いていた。
 ひどいものだとは私も思うが、私自身、その手の暴言をコメント欄などでよく受けてきたので、ネットの世界ってそんなものだよねと思っていた。
 というか、微妙に気になっていたことに関連するのだが、どこかしら、そうした暴言の人々を、どうしようもないじゃないか、ということで許容していたのではないかとも思う。
 これが今回「闇のキャンディーズ」問題として「問題」化したのは、水俣病訴訟にも関わっている弁護士の高島章氏に対して、「うるせーな、ハゲ!はよ、弁護士の仕事やめろ。プロのハゲとして生きろ。ネトウヨ弁護士。クソ馬鹿ハゲ野郎!」といった暴言を吐き、おそらく私の推測だがハゲについてはさして問題ないのかもしれないが、高島氏は「闇のキャンディーズ」本人について心当たりがあり、直接電話で問いただした。すると、「闇のキャンディーズ」氏は本人であることを認め、暴言を謝罪した。と、いう問題であった。
 ちょっとこの時点で補足したいが、問題の焦点は、①高島弁護士への暴言であったか、②これまでの数々の暴言であったか、は、その後、NHKなどでニュースになったおりでも曖昧であったように思う。
 いろいろ多面的な問題ではあったが、私が微妙に気になっていたのは、私が高島弁護士の立場であったら、どうだっただろうか、ということだった。
 おっと、その前にもうひとつ前段の話があった。
 「闇のキャンディーズ」氏が謝罪のおり、そのことがネットでも公開され、また先にも触れたように全国ニュースなどでも流れた。なぜそこまでのニュース性があったかというと、彼は新潟県でシェア60%近くを占める地方紙「新潟日報」の上越支社報道部長というメディアの要職でもあったからだ。そしてこの暴言三昧が暴露された結果、彼はその要職を解かれた。つまり社会的な「懲罰」を受けた。具体的にどの程度の「懲罰」であったかについては知らない。職を失うまでには至ってなかったようには思う。それでも、かなりな社会的な懲罰であったと言ってよいだろう。
 話が戻る。
 私が私が高島弁護士の立場であったら、こうした社会的な懲罰に至るような事態にもっていっただろうか?
 別の言い方をすると、もし私がその立場であったら、本人に確認を取ったあと、謝罪の言葉があり今後こうした暴言を繰り返さないと言明してくれたら、それ以上の社会的な懲罰が及ぶような表沙汰にはしなかったのではないかと、そのときなぜか思ったのである。
 実は、なぜ、自分がそう思ったのか、その理由がよくわからないということも、微妙な部分であった。なぜだろうか?
 一つには、ネットの暴言など大したことではないではないか。ブログをやってきて思うのだが、暴言や嫌がらせを受けても、たかがネットのことではないか。私を直接信頼してくれる人々に影響はないだろう(いや、あるかもしれないなと危惧したこともあったが)。
 また、仏陀が言ったとされる言葉であるが、「彼はわれを罵った、彼はわれを害した、彼はわれにうち勝った、彼はわれから強奪した、という思いを抱く人には、怨みはついに息むことがない」というのがあるが、それが真理とも思えないし宗教的な価値があるともそれほど思わないが、一人の暴言者に対応しても、暴言者はあとからあとから湧き出てくる。むしろ、対応しようとすればするほど湧き出てくる。どうしようもない問題じゃないかという諦念がある。
 あと一つ、私の父親が、人というものは追い詰めてはいけないものだとよく言っていたことを思い出す。父がそう言っていたのは、追い詰められた人の実相を見てきたからか、自身が追い詰められたことがあったからか、わからないが、実感として伝わるものがあった。
 ただ、そうしたことを考えてみて、少し滑稽にも思った。
 私など、そもそも一般的な罵倒で足るほどの些細な存在である。高島弁護士のように社会的な公的な価値のある人間ではない。つまり、自身を高島弁護士のような存在に重ねていろいろ思ってみても、あまり意味はないのではないか。
 そしてこの微妙な感覚は、やはりというか、そしてその「懲罰」性に及ぶ。
 少し迂回した関連ではあるが、昨日のエントリーを書いたあと、こういうコメントをもらった。悪意は感じないが、通じてないなあ感があって困惑して戸惑ったままであるが。


 それ程「もやっと」しなければいけない様な問題とは思えないんですがねぇ、、。だって言論の自由。意見表明の自由。選挙の自由は認められているわけで、それに則って行われた選出で現職が敗れただけですよね?その人がどんなポリシーを持っているかを国会で表明したら、それと意見の合わない人がその大学に多かった。それだけの事でしょ?
 その大学が、実名を挙げるのは余り良くないかもしれませんが、敢えて言えば国学院大学とか国士舘大学だったら、逆の判断になるんじゃないでしょうか?国会で「戦争法は違憲だ」なんてしゃべったら、それこそ刺されたりして(笑)まぁ、冗談は兎も角間違いなく次の学長選では落ちるでしょうね(笑)
 ですからその大学が辿ってきた歴史の中で醸し出されて来た雰囲気や創始者のポリシーを受け継いでいるから、そういう考えの人が多く居たのに、何かの間違いで違う意見の人が学長をしていただけって話ですよ。
 その大学が学長を代えたのは、それこそ大学の自治の自由そのもで、日本はそれさへも変えられないほど、そこまでおかしくはなっていない、という事で宜しいのではないですかねぇ。

 私が思ったのは、ああ、全然通じてないや、ということだった。このコメントの方を批判したいわけではない。そもそも、問題の論点がまるで通じていないなあと思った。コメントされている内容は昨日のエントリーに前提としてすべて書いておいた。
 これを別の補助線で言うなら、こういうコメント(はてぶ)もあった。

たとえばデモに参加した大学生が就職できなかったとしても、それは自由な選択であって懲罰ではないのだろうかとかいう話も関連するかも。

 この点については、欧米社会との対比でいうなら、日本の社会に問題があると思う。ただ、問題は、こうした微妙に懲罰性の機能が予想されるという構造にある。
 なぜ日本社会は、ネットの社会はというべきか、こうした懲罰性の構造を持つのだろうか?
 懲罰性が予測されると発言や行動が抑制される。そのために、自由な発言・行動であっても、その懲罰性へのしきい値のようなものが意識される。簡単に言うと、ある意見を述べるためには、懲罰を覚悟しなければならない、ということになる。これは、一種の自由のコストと言えるかもしれないが。
 が、このコスト回避が「匿名性」になっている。匿名ならその懲罰が回避されるかのように見える。
 「闇のキャンディーズ」さんは、匿名であったときには、懲罰が回避されていた。しかし、その社会的な立場が開示されたときに、懲罰を受けた。
 この構造は、別の視点から言えば、懲罰コストが匿名性を要求してしまうということでもある。それと同時に、この全体構造が社会的懲罰の仕組みと同値になっていることだ。
 イエス・キリストは、罪なきものだけが石を投げよとしたが、匿名であれば気軽に石という懲罰に加担できるし、石を投げつけることのコストからも免れる。
 冒頭の微妙に気になる問題に戻すと、「闇のキャンディーズ」さんに懲罰を与えることは、一罰百戒的な社会威嚇の効果はあり、それによって、ネットの暴言が表面的には抑制されるかもしれないが、実際には、匿名性のコストのしきい値を上げるだけで、全体の懲罰構造の改善には寄与しないどころか、それが懲罰を権威つけるために、自由な発言をより阻害していくことになるのではないか。
 ある程度曖昧でコストが意識されない自由な発言を抑制すれば、極端な意見の二極化と、匿名の加害的な懲罰性が強化されるだけなのでないか。
 まあ、こうした微妙な感覚的な問題は、いっそう通じないだろうとは思う。
 具体事例にそって、別の切り口でいうなら、ネットの社会は、できることなら、 「闇のキャンディーズ」さんが、かつての暴言を謝罪したなら、それ以上の懲罰を与えず、その後の思想・言動の変化を見つめられるようにすべきではなかったか。そのことが、本来の意味での、反省であり、社会的な謝罪の効果になったように思える。”
「闇のキャンディーズ」問題で微妙に気になっていたこと: 極東ブログ :: http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2015/12/post-a63e.html
“死んだ爺さん「不景気なったら書生っぽやらスネかじりが見てきたみたいに外国が攻めて来るとか言い出すからな。世の中不安になったら今度はお上が本やら芝居やらが低俗や、けしからん言い出したら戦争や。みんな戦争したなるねん。わしそんなん2回も見た」”
“90:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/10/25(木) 13:42:05.82 ID:1Fy3kXwl0×失敗したら笑われるなんてことを恐れるな! ○他人の失敗を笑うな! 失敗して笑われることを恐れないという思想を広めるくらいなら そもそも他人の失敗を笑うことこそ恥っていう思想を広めるべきなんじゃないの? 失敗して笑われるのが怖い軟弱な若者を恥ずかしいと思う前に 若者の失敗を笑ってしまう自分達を恥ずかしいと思った方がいいぞ世の老害連中は”

サポートをないがしろにする現場は最悪、みたいな話すると表面的には共感してもらえることが多いけど、本質的なところであんまり話が伝わってないことがある。サポートを大事にするというのは口先で感謝したり給料を上げたりすることだけではなくて、議論をする権限、意思決定の権限、いわばプロとしての尊厳をサポート担当者に与えるということだと思っているんだけど。

私は、エンジニアが労働集約的に人月換算されて投入されたあげく使い捨てにされうのを嫌うのと同じように、サポート担当者がそういう扱いされるのを嫌がってるんだと思う。でも、それ明示的に嫌がる人、実はあんまりいない。企業がサポートに力を入れるという話になるとだいたい増員であり、さらに大規模なサポセンを地方とかに作って地元の雇用創出してます、その地方の平均単価より高い(もちろん東京の本社正社員よりははるかに安い)のでみんな待遇にも満足してます、みたいな話になるのがなんか好きになれない。

究極的には人力でのサポートなんていらなくなるのが最高って本気で思ってる。これも面倒だから嫌がるのだろうとか、工数を減らしたいからそう思ってるんだろうって誤解されるんだけど、そんな話じゃない。だいたい、ユーザーの立場で考えると、何かあるごとにいちいち誰かに質問したり頼んだりしないといけないというのは、普通に考えて体験として全然よくないじゃないかって話であり、手動で何かするより自動でできたほうが早いじゃないのって話である。

(まあ、寂しい老人が話し相手欲しさにコールセンターに電話することはあるけど、そういうのはそういうので別の商売だと思う。で、そういう種類のサービス業は最後までなくならないのではないかとも思うけど、認知症の老人の症状がロボットペットで緩和されることもあるらしいので、意外に相当のレベルまでリアリティのある人工知能に置き換えることもできるかもしれない)

なんか、サポート部門作るの、どちらかというと人月よりの思考の人が多いと思う。エンジニアの人は、人月の神話嫌ってるし、と究極的には保守のための工数ゼロになるのが理想みたいな世界観をわかってくれることが多くてビジョンを共有しやすい。そこをスタート地点にすると、意思決定権限を持たされずに指示にそって決められた対応を行う人が大量投入されることをよしとする状況=ないがしろにされてる、って考えは自然だと思うんだけど、なんかいつも一から説明してる。

ケーキに載ってる苺は最初に食べるほうが甘い :: http://d.hatena.ne.jp/rikopie/20151121/1448083328